「それって社会人がやっても評価されるの?」という視点
大学生。最後のモラトリアムといったところでしょうか。勉強したり、サークル・部活に打ち込んだり、バイトでお金を稼いで海外旅行に行ったり、本当に何でもできますよね。
そして学生団体の代表とかをやると、「すごーい☆」とか言われ良い気持ちがしたりしなかったり。また、多くの友人や社会人に囲まれた写真をFacebookにあげて、「全ての人に感謝」と書いてみて、「いいね!」が付くことに一喜一憂したり。
承認欲求自体は自然なもの
それって、誰もが持っている承認欲求を満たす好意であり、むしろ健全なのかなとも思ったりします。
だって、誰だって褒められたり、多くの人に囲まれて自分が中心にいたら気持ち良いじゃないですか?
だけど1つだけ考えたいのは、「すごーい☆」とか言われている理由って、「学生だから」ではないですか?
「すごーい☆」の裏側に、「学生にしてはすごいね」という皮肉が隠れていませんか?
学生か社会人か
もちろん「学生」か「社会人」か、ということを考えること自体には大した意味は無いですし、両者に明確な差はありません。
ただ、見られ方が変わってくると思います。学生となると、どうしても評価基準が低くなる傾向があり、社会人がやっても特に何も賞賛されない場合でも、学生がやっただけで周囲が褒め称えている例は枚挙に暇がないように感じます。
それ自体は別に悪いことでも何でもありません。ただ、本当にそれで満足ですか?「学生」という肩書が無くなった瞬間に、あなたの周りから「すごーい☆」といってくれる人はいなくなるのではないでしょうか?
学生時代に意識高い人は社会人になり意識が低くなる?
「学生時代に意識高いことをしていた学生のことを、社会人になって全く話を聞かなくなる」という言説があります。
もちろん、活動する領域が変わったので話を聞きにくくなっているのはあるでしょう。一方で、その学生が単に「学生」という理由だけで話題に上がっていただけであり、社会人になりそのラベルが無くなり、目立たなくなったというだけな気もします。
周囲が勝手に「学生」を持ち上げているだけだという意見もあるでしょう。学生をうまく使い、自己の利益を追い求める「若者応援おじさん」も世の中にはたくさんいます。
持ち上げられたり、応援されている間は気持ち良いと思いますが、それって本当に自分の実力でそうされているのかどこかで一歩引いた目線を持ちたいような。
そうしないと、いつまでたっても「なにしてるかよくわかんないけどすごーい☆」という胡散臭い意識高い学生のままですよ。