承認欲求が強すぎると、頭を使わなくなる?
「誰かに認められたい!」や「誰かに褒められたい!」といった承認欲求。誰もが持っているものだと思います。そして、誰もが誰かに認められたり、褒められたら嬉しいと感じます。
こうした承認欲求ですが、承認欲求が強すぎるのはもしかしたら問題かもしれません。なぜなら、承認欲求を意識し過ぎると、頭を使わなくなるからです。
具体的に見ていきましょう。
承認欲求を満たす一番簡単な方法は、承認欲求を以前満たした方法を再現することです。つまり、誰かに認められたり、褒められたりした状況をもう一度繰り返せば、認められ、また褒められ、承認欲求は満たされます。
それに慣れてしまうと、何も考えることなく、以前と同じことを繰り返し続けることになります。だって、そうするだけで、承認欲求が満たされるのですから、こんなに簡単なことはありませんよね。
でも、その状況も長くは続きません。同じことを再現し続けても、いつかはそれだけでは誰かに認められたり、褒められたりすることは無くなります。そして初めて気が付くのです、自分は頭を使わずにいたのだと…
そうなってしまうことが、不幸かというと、そうではないと思います。
ただ、承認欲求だけを満たすために行動すると、頭を使わなくなる危険性があることだけは、意識し続けたほうが良いかなあと思います。
承認欲求、中毒性の強い危険なものなのかもしれませんね。
誰かに教えることが最も成長する
「成長したい」と感じる場面ってありますよね?
そんな時って、どうしますか?本を読む、勉強する、誰かに聞く、などなど成長する手段はいろいろあるかなと思います。
それでは、どんな時に最も成長するのでしょうか?誰かに教える時が最も成長する時だと思います。
なぜなら誰かに何かを教える場合、中途半端な理解では教えられません。また、理解したつもりになっていても、質問された時に答えることができません。
教えるために資料やカリキュラムを作成すると思いますが、それを作成しているうちに自分の理解の浅さがわかり、そこだけをピンポイントで学習することもできます。
つまり、人に何かを教える、そのために準備する中で学習することが最も成長する方法なのかもしれませんね。
とは言え、自分が完全に何かを理解していないと教えるのは怖いと感じることも当然だと思います。ただ、完全に理解しているなんて状態を作ること自体がそもそも不可能だし、教わる相手もそれは求めていません。嘘を教えられても困りますが、わからないことがあったら次の機会までに教えてくれれば問題ないと感じています。
そのため自分が理解がまだ浅い、自身がないと思っても、積極的に教える機会を作りましょう。ここではハッタリが大事です。そして、教えながら、自分の理解も深めていきましょうね!
UIやUXが優れているという強みは強みなのか?
Webサービスで最近はやりの言葉といえば、「UI」や「UX」ではないでしょうか?このサイトはUIが良いから使いやすい、このサイトはUXに優れるのでカスタマーが逃げないなどなど。
使う側からしたら、UIやUXって大事ですよね。しかし、それはWebサービス運営側でも同じなんでしょうか?
もちろんUIやUXに優れたWebサービスを作るに越したことはないです。でも、それだけではすぐに他のサービスに追いつかれ、差別化できないと思います。そのため、Webサービスの強みはUIやUXにのみ置いている場合は、結構危険なんじゃないかなあと。
絶対に他が真似できないUIやUXを実現していたら別だとは思いますが、ほぼそんなことはないですし、技術がどんどん発達している中で、新しい技術がでたら死ぬようなUIやUXの可能性が高いですからね。
絶対に模倣できないビジネスモデルとか、絶対に他が参入できない障壁を作る、とかとかのほうが大事なのではと思う日々です。
「それって社会人がやっても評価されるの?」という視点
大学生。最後のモラトリアムといったところでしょうか。勉強したり、サークル・部活に打ち込んだり、バイトでお金を稼いで海外旅行に行ったり、本当に何でもできますよね。
そして学生団体の代表とかをやると、「すごーい☆」とか言われ良い気持ちがしたりしなかったり。また、多くの友人や社会人に囲まれた写真をFacebookにあげて、「全ての人に感謝」と書いてみて、「いいね!」が付くことに一喜一憂したり。
承認欲求自体は自然なもの
それって、誰もが持っている承認欲求を満たす好意であり、むしろ健全なのかなとも思ったりします。
だって、誰だって褒められたり、多くの人に囲まれて自分が中心にいたら気持ち良いじゃないですか?
だけど1つだけ考えたいのは、「すごーい☆」とか言われている理由って、「学生だから」ではないですか?
「すごーい☆」の裏側に、「学生にしてはすごいね」という皮肉が隠れていませんか?
学生か社会人か
もちろん「学生」か「社会人」か、ということを考えること自体には大した意味は無いですし、両者に明確な差はありません。
ただ、見られ方が変わってくると思います。学生となると、どうしても評価基準が低くなる傾向があり、社会人がやっても特に何も賞賛されない場合でも、学生がやっただけで周囲が褒め称えている例は枚挙に暇がないように感じます。
それ自体は別に悪いことでも何でもありません。ただ、本当にそれで満足ですか?「学生」という肩書が無くなった瞬間に、あなたの周りから「すごーい☆」といってくれる人はいなくなるのではないでしょうか?
学生時代に意識高い人は社会人になり意識が低くなる?
「学生時代に意識高いことをしていた学生のことを、社会人になって全く話を聞かなくなる」という言説があります。
もちろん、活動する領域が変わったので話を聞きにくくなっているのはあるでしょう。一方で、その学生が単に「学生」という理由だけで話題に上がっていただけであり、社会人になりそのラベルが無くなり、目立たなくなったというだけな気もします。
周囲が勝手に「学生」を持ち上げているだけだという意見もあるでしょう。学生をうまく使い、自己の利益を追い求める「若者応援おじさん」も世の中にはたくさんいます。
持ち上げられたり、応援されている間は気持ち良いと思いますが、それって本当に自分の実力でそうされているのかどこかで一歩引いた目線を持ちたいような。
そうしないと、いつまでたっても「なにしてるかよくわかんないけどすごーい☆」という胡散臭い意識高い学生のままですよ。